群馬は「日常」と「非日常」の境界線なのだろうか

 先週土曜、上信越車道下り(長野方面)の群馬のパーキングエリアで男女の会話を聞いた。

 「ここでご飯にする?」「でも”まだ”群馬だよ」

 普段は地方に位置づけられるはずの群馬が、お出かけになると東京寄り(旅は始まってない)にされている。個人的な経験でも、赴任前、軽井沢や越後湯沢から東京方面に向かう際、高崎辺りで「ああ”もう”群馬か」と感じたことがある(高崎-東京は50分あるし、軽井沢なんて3分の1は群馬なのに)。

 群馬は「旅の終わり」「現実」を感じさせる存在ということになるけど、それは関東地方に入るからなのか?景色が山から工業地帯に変わるからなのか?あるいは心の距離の問題なのか。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は引き返すと群馬。

 帰り道に帽子を落として「母さん僕のあの帽子どうしたでせうね」と振り返るのも群馬。

 なんというか、群馬が「日常」「非日常」の境界になっている。

 イメージの問題なのか。都道府県の魅力度ランキングだと、群馬は今年45位(最下位は茨城)。10位の長野、19位の新潟と差があるから「あー」となるのか。

 もし観光に適しているのが「魅力」なら、群馬でできることはウィンタースポーツから海鮮を除くグルメまで、魅力度1位の北海道とだいたい変わらないはずなのだが。うーむ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です