ダイヤ改正で姿を消した特急車両のこと
「きちんとお別れをしておきたい」というのは、どういう感情なのだろう?
北関東で記者をしていた時、JRからプレスリリースが届いた。ダイヤ改正に関するもので、特急列車がリニューアルされて便利になるとのことだった。翌日の紙面にリリース文を横から縦にした小さな記事が載った。
「しかし待てよ。古い車両はどうなるのだろう?」
これが、自分の抱いた疑問だった。調べてみると、国鉄時代に作られた特急車両は、どうやら今回のダイヤ改正で地元から姿を消すらしかった。
引退の速報自体は、専門メディアが先行していた。広報担当に問い合わせて、その特急車両と一緒に引退する運転士がいないか聞いてみた。根拠はなかったが「絶対いるはずですから」と押して調べてもらうと、運輸区に1人いた。
その人に思い出を聞いて「長年連れ添った運転士も引退」というヒューマンストーリーを書いたところ、デジタル版で読んでもらえて、翌日に地元紙まで追いかけてきた(特ダネでもないのに、地元紙が追ってくるというのは、当時すごくうれしかった)。
姿を消すモノに対する人間の感情って?
この話を出したのは、べつに過去の成功体験に浸りたいのではなく、やはり「世の中から姿を消してしまうモノ」に対する人間の感情って、不思議なものだと思うのだ。家族が余命宣告されたら、仕事を減らしてもらい、見舞いに通うのは分かる。亡くなってしまったら心に大きな穴が空いてしまうのも分かる。でも、モノに対しても同じことを思うのか?
モノには口はないので、応えてくれるわけではない。感情は一方的なものだ。家族ほど大事なわけでもない。でも、いつも変わらずあったものが、ある日を境に姿を消してしまい、もう二度と会えなくなってしまう。感情の分類としては、薄めて言えば「寂しさ」、濃く言えば「怖さ」なのではないか。後悔しないために、自発的に精神的なけじめとして「お別れ」をしておきたくなる。ここらへん、文化人類学などに詳しい人にいつか見解を聞いてみたい。
少し別の視点に立ってみると、例えば映画「ALWAYS 三丁目の夕日」などでは、古いものが新しいものに置き換わることは、むしろ「豊かになっていく」象徴としてウェルカムに描写されていた。電気冷蔵庫が届いた翌日、ゴミ捨て場に捨てられた古い冷蔵庫を見つめる氷屋さんの姿も、どこかやむを得ないという様子だった。社会が成熟していくほど、古いものに対する感情は強くなっていくということなのだろうか?
「お別れ」の方法は、もう一度乗っておく、触っておく、嗅いでおく、聴いておく、(自分なら360度カメラで撮っておく)とか、いろいろあるんじゃないかと思っている。この春は、SV踊り子は引退するし、デルタ航空は成田撤退するし、ディズニーシーでも10年近く続いた夜のショーが終わり、慌ただしい。とりあえず仕事帰りに舞浜に寄って、「ファンタズミック!」を撮影してきたのだった。
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