ルーブル美術館で見かけた絵について思い出したこと

この絵画の何が怖いのか?

 10年ほど前に「怖い絵」という本がベストセラーになった。絵画に込められた意図が分かると、背筋の凍るような恐怖を覚える、という内容でヒットしたらしい。ところが、大学の授業で、その本を「表面的で退屈だ」と断じた映像文化論の先生がいた。題材にしたのが、パリのルーブル美術館にあるラトゥールの「ダイヤのエースを持ついかさま師」だった。

 この絵は、左側の詐欺師と、中央の娼婦が、右側の裕福そうな青年からトランプの賭けでお金をむさぼろうとしている構図とされ、本でもそのように紹介されている。ただ、先生が言うには「もっと深い解釈ができるはずだ」と。

 登場人物の表情を見ると、娼婦は生活がかかっているのに負けそうなので厳しい表情をしていて、召使いにワインを注がせて青年を酔わせようとしている。詐欺師はこの後の勝ち方が分かっているのでどこか余裕げだ。一方で、青年は賭け事を楽しんでいるわけでも、勝敗に焦っているわけでもなさそうだ。

裕福な青年の表情の裏に

 この青年の表情に「本当の怖さがあるのではないか」という解釈だった。すなわち、この青年は裕福なので、賭け事で負けたとしても失う金など気にならない。もう人生に飽きていて、自分をどのように騙してくるのか、詐欺師と娼婦の出方を見るぐらいしか、もう楽しみがないのではないか。

 あの授業に影響されたのかは分からないし、そもそも私は裕福ではない上に人生に飽きたつもりもないのだが、最近、ウソをついたり、偉そうだったり、マウントを取ってきたりする相手がいた時に、いちいちマイナスの感情になるのに疲れてしまい、不快になるより先に、どこまでエスカレートするのか観察したくなってしまう。

 例えば、あからさまなウソをついた人がいたとする。「ウソでしょう」とその場でいさめるよりも、そのウソをとことん信じてあげて、興味をもって深堀りしていくと、追い詰められてさらにウソをつく人もいれば、「ごめんちょっと盛ったわ」と謝ってくる人もいる。後者の場合には、等身大のその人と巡り会えた気がしてうれしいし、もう一軒飲みに行く気になる。

 いちいち疑ったり、食ってかかるよりも、すべて信じて聞いてあげたほうが、かえって相手は混乱するし、面白い展開になる、と気づけた点で、20代よりも成長したかもしれない。もちろん、いつも相手を信じて生きていければ、それに越したことはないけど、世の中にいれば不誠実な人とも向き合わないといけないので難しい。

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