観光キャンペーン「Tokyo Tokyo」のプロモ動画「Always Surprising」で考える明るい東京&暗い東京

「静」と「動」で表現するTOKYO

東京都の外国人向け観光キャンペーンの「Tokyo.Tokyo」が好きで、「Always Surprising」という動画が深かったのでシェアする。1.5~2秒ぐらいのカットが連続して続き、1つ1つの情報量がとても多く、ちゃんと意味づけもされていて、リピートしていて涙腺をやられた。

動画は、降機時から見える景色や聞こえる音を「静」と「動」に分けて描写している。前半の「静」はリッチな旅行者視点。カーテン付きのハイヤーでリーガロイヤルに向かい、ドアマンに迎えられる。銀座を歩いて回らない寿司を食べて、お菓子教室や登山で四季を味わい、カリグラフィ(書道)や弓道を楽しむ。昼間の渋谷の交差点には、ウェディングの記念写真を撮るカップルや、制服に身を包んだ私立小学校の小学生が歩く。どこからも笑い声が聞こえる。

「動」はエネルギッシュで大衆的な旅行者視点。タクシーで新宿へ向かい(メーターは5300円。運転手さんがミラー越しにやわらかく微笑んでいるのがすごくいい)、横丁で焼き物やラーメン、回転寿司を食べ、泊まるのはカプセルホテル(同じフロアに1人で泊まる若い女性もいて治安が悪くないのが分かる)。原宿を歩けばタトゥーの入ったDQNも歩いているが危険ではない。夜の渋谷の交差点には、ハロウィーンにはしゃぐ髪の毛がピンクやグリーンのギャルや謎の着ぐるみが渡る。JRのホームからの機械アナウンスがこだまする。

どう受け止めるべきなのか

シンプルなメッセージとして受け止めれば「リッチ旅行でも貧乏旅行でも楽しい場所ですよ」なのか。ただ、住んでいる側の目線に立つと「動」で描かれる昼の、清潔で、軽い、富める人々にとっての明るい東京、「動」で描かれる夜の、アングラの、重い、貧しい人々にとっての暗い東京を、それぞれ隔てているものは何だろうか?とか考えてしまう。

中間層が失われて格差が広がって…みたいなことを言い出すつもりはないのだが、「静」と「動」はリーグ交替の機会もあるけど徐々に固定(分断)され始めている。(東京がそれを現実として認めているのが画期的だと思うのだけど)映像を見る限り、ふしぎなことにどちらも楽しそう。お菓子教室で向かいの席になった(育ちのよさそうな)人も、渋谷のハロウィンですれ違う人も、旅行者に笑顔を振りまく。ラーメンは汚い店ほど美味しいように、明るい東京にはないものが暗い東京にはあり、逆もしかりで、どちらが良い悪いではなく、双方あって初めて「東京」という1つの秩序というか、個性を作っている。どこか陰陽思想の太極図的なものをイメージする。

もし陰陽的なのが根底にあるならアジアの他のメガシティも同じアピールをできる気もするけど、東京は一歩先に成熟しているからこの見せ方をできるのかなと。もちろん格差は広がっているのだけど分断には至っておらず、経済発展から取り残された人々が分断している新興国とも違う状況で、「それはそれで」と境遇を楽しむ余裕がまだあるように見える。これがNYのタイムズスクエアだったら、こんな肯定的な描き方をして許されるだろうか?

ロゴを見るとわかる通り、Tokyoを毛筆体とゴシック体で掛け合わせて「東京は異なる要素が交わる場所です」というメッセージを含んでいて、これまでOld meets Newと題して浮世絵と初音ミクを新旧対比させるような浅い描写をしていたのだけど、今回は「ただ並べているんじゃないんだよ」という、双方の関係性に踏み込んだメッセージに受け取れた気がした。